若いって素晴らしい

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少々、危ないかなって思っても、とりあえず挑戦!
団塊世代が体験したのは、本当にこんな青春だったと思います。

こんな感じで、今の僕が、客観的に当時のもう一人の僕を眺めているというコラムが差し込まれますけど、お許しを。

仕事を始めてからは何度も何度も、相模湖あたりの中央道を通りました。いつも思い出すのは、このブログの最初のほうに書かれている光景です。

転がり落ちたのはこのあたりか?
あの時、お世話をしてくれたあのおじさんたちは今どうしているんだろう?優しい賄いの叔母さんは・・・?

あのときのあの方たちの年齢を多分はるかに超えて、僕は今生きています。僕なりに一生懸命の人生を生きています。
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追想

おまけです・・・・
高台の草原で、僕は一人の女性と並んで腰をおろして、ススキが風にゆれているのを黙って眺めていました。やっと合唱団の本隊が到着し、合宿が始まってすぐの事だと思います。
黄昏にはまだ少し間があった時刻です。

この旅の出来事を思い出しながら、彼女に伝えきったところで言葉が途切れ、なんだかちょっと照れくさい気持ちになりました。

(この情景は今でもよく思い出します。特別に彼女と付き合っていたわけではないのですが、何故か二人で、この草原に並んで腰をおろしているのです)


きっと最後の顛末も話したはずやなあ。

ん・・皆さんも聞きたいってか・・・・。わかりました。
じゃあ、オマケということで、このシリーズ最終回。
ほんまの最後やで。


湖に着いたはいいものの、合宿する旅館は、名前しかわからない。
とりあえず、地元の人に尋ねながらなんとかその場所につきました。

玄関で挨拶をしたものの、ご主人も女将さんも仰天しっぱなしで埒があかない。まだ合宿開始の予定日には3,4日あったはずやな。
こんなに早く来られても困るし、そんな格好でも困る。とのこと。

まあ普通の反応ですわな。


僕としては、皆が来るまで、旅館の仕事をなんでもいいからお手伝いさせて頂いて、宿泊と食事の面倒をみてもらおうという虫のいい腹づもり。

なんとか明日からはその条件で働かせてもらえることになったものの、今晩は部屋に空きがない。

もし泊まるなら、もう少し山を登ったところに別棟の宿泊設備があるから、今日のところはそちらに泊まってほしいとのこと。


僕としては、それでも願ったり叶ったり。
とりあえず目的の旅館にたどり着けたことで、一気に気力は萎えてしまっていたけれど、元気をふりしぼって山道をのぼってゆきました。

雨上がりの急な山道はシンドかったです。

やっとのことで、すこし上にあった簡易宿泊所にたどり着き、泥まみれの足を洗い、タオルを水に濡らして身体を拭き清め、とりあえずの宿泊用の毛布のようなものを身体にまきつけて僕は横たわりました。

シーンと静まりかえった山小屋にひとり。
でも少しも怖くはありませんでした。
山の夜の空気はつめたく、自分の体温だけが自分自身を温めていたのですが、それほど寒さは気にはなりませんでした。

八日間の思い出が次々とまどろみの中に現れては消え、消えては現れするうちに僕は深い眠りに落ちてゆきました。




翌朝から旅館での仕事・・・宿泊者の布団の上げ下げ、玄関の掃除、廊下の掃除、雑用をしながら本隊の到着を待ちました。
彼等が到着した時には、いっぱしの使用人面(づら)をしていた事でしょう。

本隊が到着するやいなや、僕は団の責任者に変身。
旅館のご主人女将さんも、二度ビックリなさったことでしょうね。
今度は客の代表としてお二人と向かい合うことになったわけですから。


そんな話を、すべて、そのススキの中で彼女に伝えたんでしょうね。
「フーッ・・・」と溜息が聞こえたような気がしました。

「ぼちぼち、晩御飯やで、帰ろうか」
二人はゆっくりと腰をあげ、みんなが待つ合宿所の方に降りてゆきました。


未だに、彼女に会うとその情景を思い出してしまうのです。
あの時、風にゆれていたススキの穂の白さが、今も目の奥に焼きついています。その話をすると、きっとまた笑いながら「なんで、あそこに二人でいたんだろうね」って、彼女は言うだろうなあ。

淡き青春の思い出・・・・

これにて完結。
ハチャメチャな旅日記でしたが、最後の〆は柄にもなくちょっとシミジミ系でまとめてみました。

最後までお読みいただき有難うございました。

旅の終わりに

旅の終わりに・・・
なんとか歩いてきた。
八日間で210キロ。日割りにすれば、一日26キロほど。何しろ下駄やから、まあ、1時間あたり3キロ。
一日8時間〜10時間は歩いていたんやろうなあ。

・・・そんなもんか・・・と言われたお方!

まあ、やってみんしゃい!
下駄でっせ! 足指腫れまっせ!!
袴でっせ! みんなにふりかえられまっせ!! 笑われまっせ!
蟻にかまれまっせ!! ネズミになめられまっせ!!

(あ、すみません、急に態度が大きくなって・・・)



最終日を祝うかのように、空は信濃路独特の蒼さで広がり、風は緑の香りをはらんで僕を目的地に誘っていました。

今日で終わる。すべて終わる。

その喜びは、痛んだ足にも伝わり、一応足取りも軽く宿の方々の見送りを受けて意気揚々と、僕は最後の一日を開始したのでした。

本当に気持ちのいい天気でした。



そう、・・午前中はね。
でも昼を過ぎたあたりから、急に風向きが変わり、突然の驟雨。
堪らず飛び込んだ廃屋で、僕は重大な事に気がついてしまった。


昨日までは、甲州街道、いわゆる20号線を、ただただ辿っていればよかったのですが、今日からは・・・

この道を歩いてゆく事になるのです

(上記に地図リンク)


152号線から大門街道へ。
ちょいと今までとは勝手が違う。その確認のためにナップサックに入れておいた筈の地図を取り出そうとして、かなり焦った。


確かに出発の時にはあった地図。
そして、二日目の山越えの時には、それを判断の材料として覗き込んだ地図なのです。それが・・・・

「ない!」

まるで合宿で練習をする予定になっていた合唱組曲「旅」そのもののようになってしまった・・・・・地図も無くした旅の終わり・・・・・。



気を取り直し、雨上がりの道をノロノロと歩き出してみたものの、
こいつには少々参った。とどめの衝撃、いざ除幕。



そして、案の定。
152号線から大門街道にはいる道を間違えたのだろうなあ・・・。
夕刻近くになっても、僕はまだ腰の高さほどのススキの中をさ迷い続けていたのです。


きっと・・そうやな・・
あの地図はあの日、あの山中に放りなげてきたんやろうなあ。

その後は地図を見るよりも、通りがかりの人にたずねて20号線を確認していれば事は足りていたわけだ。

だが、この道を歩いてゆく人は今はいない。


いまさら悔やんでみても仕方が無い事です。


そんなことより、ここであの日の二の舞を演ずるなんてまっぴらごめん。
足元は雨上がりの赤土に下駄が取られそうになり、いまや下駄はナップサックに仕舞い込み、素足で歩いていました。



今考えると狂気の沙汰であったかもしれない。

傷口が開いたままの指は、破傷風菌にとっては恰好の餌食。
けれどそんな事はお構いなしに、僕は唸りながら徘徊をし続けていた。


まるで手負いの猪である。ぶち当たるまではひたすら猛進。
何回かの突き当たりに戸惑い、挫折しながらも、僕は勘だけを頼りとして黄昏の中をさまよい続けました。


行く手に、小高い土手のようなものが眼に入った。
あそこに登れば少しは周辺を見渡す事ができるに違いない。

あの二日目、二人で崖を転がり落ちた。
今日は一人でこの土手をよじ登る。

ススキを束ねてつかみ、足を赤土に突きたてながら僕は必死に上を目指した。
耳の奥がキーンと音を立てていた。

(なにしてるんやろ・・俺)

やっと顔が土手の上にでた瞬間、とうとう僕は観たんです!!
目の前に広がる静かな湖面を!

最後の一蹴りで僕は半身を土手の上に運び上げ、
さらにしっかりと確認をしました。

   湖や!! 着いたで〜!!!


それに、すぐ傍には「白樺湖」と書かれた標識が立っているではありませんか!  

土手の端から距離にして湖面まで20mほど!!


その時僕自身がどんな顔をしていたのかは想像もつきません。
ただ、近くの湖畔を散歩していた男女のカップルが後ずさりをした様子だけは妙に印象に残っています。

妙にって・・・・言ったってネエ・・・。


赤土まみれの白絣の胸元をはだけ、ボロボロの袴に角帽を被った男が、やにわに土手の下から這い上がってきたんだものねえ。
相当ビックリした事だと思いますよ。


けれど僕はおもむろに、土手の下から腰を引き上げ、袋から下駄を取り出し、絣の襟を整え、袴の帯を締めなおし、何事もなかったかのように合宿するための宿を目指しました。

ん・・?
宿のある場所?そんなもんはどうでもよかったんです。
なんならこれから湖を一周してもいいと思うほど昂ぶっていました。

ここは「白樺湖やもん」!!


まだ暮れきっていない湖面には少し霧が降りていたようでした。
湖面を渡ってくる風は、火照った身体を一気に冷やすほど、
もうすでに初秋をはらみはじめていたようです。

その中を、僕はゆっくりとゆっくりと歩みました。
最後の一歩一歩を慈しむような気持ちで

武勇伝 武勇伝 いよいよ佳境

武勇伝もいよいよ佳境ってか・・・七日目


さて、多分、その日も朝早くから歩き出したんでしょうねえ。
大学の大隈さんと別れてから、もう一週間ですわ。

下駄は、もう三足目だったと思います。下駄の歯が擦り切れて、最後は、鼻緒が直接地面でこすられて、その挙句、歩いている途中に、いきなり切れるんです。

あ、思い出した。一回どこかのお姉さんに鼻緒をすげ替えてもらった事があったのを思い出したわ!!



どこやったかなあ。前日の意識混濁の一日だったかも知れないなあ。


その、お姉さん、僕が難儀をしているのを見て声をかけてくれて、確かピンク色のハンカチを裂いて、僕の鼻緒を一時的に補修してくれはったはずや。

うん、そうやそうや。


綺麗なお姉さんやったような気がしてきた。年の頃なら30前後やったやろか。紺のタイトスカートで、真っ白の半袖のブラウス着てはった(ような気がする)。その補修の間、僕は近くの石に腰を下ろして、何故かサイダー飲んでたなあ。


そして、その後おねえさんは、僕の目的地をたずねて眼を見開いて驚いていた(ような気がする)・・・そんだけや・・・ホンマにそれっきりやで。


いくら空白の一日といえど、なんぞあったら覚えてるはずやもんなあ。



それで、この七日目の朝は下駄を買うところから始まって、山越えにはいったんやろうな。

ほとんど雨知らずの旅でした。
この日もカンカン照りの中を歩いてゆきました。


あれは3時くらいの事やったかなあ。
僕は歩いてゆく道に沢山の赤いシミができていることに気がついたのです。

改めて目を凝らしてみると、これから下ってゆく道の先にも、そんなシミがいっぱいある事に気がつきました。

なんやったと思います?

赤とんぼなんです!!

赤とんぼが一杯道に落ちているんです。
ホントに!落ちているんです!


きっと高速で下ってくる車のフロントガラスにぶつかるんじゃないでしょうかねえ。

そして一時的な脳震盪(トンボの脳は・・ようわかりませんけど)を起こして落ちてしまうんでしょうねえ。


哀れに思いました。

僕は何匹も拾い上げては、とりあえずは僕の指にとまらせたまま歩き続け、彼等が我に帰って大空に飛んでゆくのを何度も何度も見送りました。


詩的な情景でしょ。でも本当なのです。


拾い上げる事ができなかった赤とんぼたちの中には、猛スピードで下ってくる車に轢かれていったものも多かったはずです。
僕に拾われるか拾われないかが生死の境目。
複雑な気持ちになります。



その日は諏訪に宿泊する予定でした。
ですから、その目的地に着くまでは歩き続けなければなりませんでした。

夜の8時くらいになっても、僕はまだ歩いていました。


ある集落に入った時、お盆の迎え火を焚いていたのでしょう。
「あ、お兄ちゃんが帰ってきた!」という少年の声で、一塊の人たちが一斉に僕の方に向き直りました。

都会から帰省してくる兄を待っていたのか、それとも彼岸の果てから戻ってくる兄を待っていたのか・・それはわかりませんでしたが。

その人たちの傍を足早に過ぎ去り、僕はしばらくして、やっとのことで諏訪の街に入る事ができました。夜10時位の到着です。

その夜宿泊した旅館の事は、しっかり覚えています。


あてがわれた部屋は二階。僕はその階段を登るのに10分以上を要したのではないかと思います。土色になった白絣の着物にボロボロの袴。

下駄をつっかけた足は腫れあがり、二階にさえ登れない妙な青年を、呆れた顔をして眺めていた旅館の方の顔はしっかりと思い出すことができます。

目的地まで、あと30キロほどの地点。
明日は、いままでの20号線を離れ、いよいよ白樺湖へと北上する道に入る事になるのです。

混濁・・・・

混濁・・・・
翌朝、友人の豪邸を後に、また歩き出したと思いなせえ。
(なんだか時代劇みたいになってきたなあ)

さっきまでは今こうやって書き連ねてゆくと、この日のうちに諏訪にはいったような気がしていたけど・・・ありえない!絶対に!

一日60キロを踏破するなんて神業ということに気がついた。
足はボロボロ、下駄ですよっ!!

一日20キロから25キロがいいとこ。
ということは、その間にどこかで一泊していることになる。

空白の一日、慌ててます。
20号線を歩いていた事には間違いがない。
必死に記憶を呼び戻すがなんとも覚束ない。

そうすると鮮烈な思いでがあるのは一日後になるわけか・・
(これは次回のお楽しみ)

38年間を隔てた、青春の一日は帰ってこないのか・・。
地図の上の20号線(甲州街道)を、甲府から諏訪に向かって何度も何度も
眺める。

そうや・・大きな川の辺をあるいていた。
地図では、どうもその川は釜無川の公算が大きい。
そう・・・車がビュンビュン飛ばしてゆく道を僕は歩いていた。
その道路は川との間に、防波堤のようなコンクリートの土手が築かれていた場所があった。


確かなことはいえないけれど、多分韮崎を過ぎたあたりだろうなあ。
昼をまわった頃で、灼熱の太陽を恨めしく思いながら歩いていた。


角帽に塗りこめていたバターが溶けて、汗と一緒になって頬を伝った。
(この時代、角帽をそのようにしてテカテカにするのが流行っていたんです。そのうえ、フライパンで二度ほど角帽の表面を焼いたこともある)

昼頃にそのあたりを歩いているという事は、その日は、よく行って白州あたり・・・ううむ・・・おっ!牧の原という場所がある!!


きっとここだ!ここに違いない。
六日目の宿はここでしょう。



今も変わらず、何かにこじつけて物事を考えるのが好きな僕の事です。
牧野と牧の原、ビビッと感じるものがあってその地に宿泊する事にしたのに違いない。


問題は、どこに泊まったか、誰と・・(あ!これは関係ないです)
そのあたりの記憶混濁しています。
優しげなおねえさんも登場してこない・・・・。


ということは、一人で、つまらない旅館にもぐりこんだのでしょうねえ。大酒を飲んでいたわけでもないから、こんなに記憶が無いとはなんだか怖い。



これが最近話題になっている「信濃路の空白の一日」である。(誰も話題にしてないか・・・)

なんとかここまで思い出せた一日。

確実にこの日は存在したはずである。


そうじゃないと、甲府から諏訪まで瞬間移動できたことになるもんな。
幽体離脱して・・・テレポーション。ってか

五日目・・限界かなあ・・・

五日目・・・限界かなあ
朝起きても、寝不足なのが、よ〜うわかった。
両手で触ってみても、顔がむくんでる。

寝不足は美容の大敵や(そう思うたかどうかわからんけど・・)
もしかすると、笛吹川の蚊に食べられたんかも知れんけど。

(まったく!顔は蚊に食われるし、指は蟻に食われるし・・)

また、昨日の情景が思い浮かんでゾーッとした。

それに加えて、あの納屋の中の小動物みたいなもん、なんやったんやろ。


まあ、ネズミくらいに思うとこう。
人喰い蟻に比べたら可愛いもんや・・・ネズミやったら猫とか犬の友達みたいなもんやから親近感がわく・・そうしとこ!!


朝ぼらけの中を、ノロノロと歩き出しました。
けれど、ちょっとも前に進みません。
指の痛み、太股の痛み、腰の痛み。

いよいよ満身創痍の段階ですね。
気力も相当萎えてしまっていました。

ダラダラノロノロ・・・・はっきり言って、やめて帰りたなってました。

半べそ状態・・・(なんでこんなことしてるんやろ・・オレ)

甲府に入るには山越えがありました。高速道路はまだできていませんでしたが甲州街道はアスファルトになっていました。照り返しも激しく、炎天下では益々足が進みません。

そんな時でした。

僕のすぐ傍に、甲府に向かう方向の乗用車が一台止まりました。

「頑張ってるな」運転席から、かっこいいオジサンが声をかけてきました。
「・・・・・・・」

「一昨日、大月あたりでもすれ違ったんだけど、あれからずっとか?」
「はあ・・・・・・」

「早稲田の学生か?」
「はあ・・・・」

「角帽か、なつかしいなあ!」
「あ!先輩ですか!」

「いや、オレは西の方の大学」
「じゃあ、同志社!」

「いや、もっと西」
「じゃあ、西南学院」

「お!知ってるか!」
「はい!この角帽の形はこの三大学だけですから!」

「縁だねえ!乗ってくか、甲府まで」
「は・・・・・いえ!・・・歩きます」

「どこまで?」
「長野の白樺湖までです」

「そうか、頑張れよ。応援してるよ」

格好のいいオジサンは、隣の美人のお姉さんのほうをチラッと見て、そのままスーッと車を滑らしてゆきました。

「応援して・・くれてるんや・・なあ」


複雑な心境でした。
それでも、この瞬間に新たに歩く意欲が湧き上がってきたことも確かです。

「歩くぞ!絶対!」


その夜遅く僕は甲府出身の同級生の家に転がり込み、一夜の宿泊を頼みました。大きな呉服屋の跡取り息子だった彼は、喜んで歓待してくれました。

すすめてくれた自家製の梅酒のなんと美味かったことか。


その夜の夜具の暖かかったこと、僕は一生忘れそうにありません。

この日の徒歩距離は、この旅の中で一番少なかったでしょう。
五日目。疲れはピークに達していました。

あり! 蟻 アリ!そんなん有り!

あり!蟻!アリ! そんなん有り?


笛吹川の川辺に野宿と決め込んだと思いなせえ。
夏の夕方ですわ。


田舎の蚊は都会者の血に飢えている。
なんでそんなんもってたんか知らんけど、足元と両脇と頭の上にキンチョーの渦巻き型蚊取り線香をいぶして、これまたなんでもってたんかわからんけど、バスタオルを川辺の砂利の上に広げて、その上にヨッコラショと横たわる。

それでも、田舎の蚊は寄ってくる。
パチッ!ポリポリを繰り返しながらも、あまりの疲れにいつしかウトウトと
・・・・・。

しばらくして、足指の異常な感覚で眼を覚ました。
痛痒いんです。
蚊とはちょっと違う感覚・・

川辺にはいろんなものが棲息しているわなあ。
バッタとかヤゴとか、蛇なんかもいるかもしれん。
そいつらが、足元に・・・?

コワーッ!



正直、ビビリました。
観るのが怖かった。
そやけど、この感覚の原因を究明せないかん!!??

思い切って上半身をガバッと起き上がらせて足元を観た。

なんとお・・・そこには、黒山の蟻だかり!!!

足の親指と人差し指(こんなところで人は指さへんけど)の間は、もうボロボロのグチュグチュです。体液が沁み出し、かさぶたになり、それがまた破れて、(もうこれ以上は言えません・・)

その足指の体液が沁み出している辺りを中心に、まるで蜜を求めるかのように大きな山蟻たちが密集してうごめいているんです!!!!

はっきりいって、卒倒しそうになりました。
自分で顔から血の気がひいてゆくのがわかりました。

VVWAー!(ヴヴワー!とでも読んでね)


跳ね起きて、身体中にも這い回っている蟻んこたちを必死でたたき落として、それでもキチンと蚊取り線香の始末をして、バスタオルを四つに畳んで、一目散に街道に駆け上りました。


背筋はまだゾクゾクしっぱなしでした。
頭の中では「蟻は甘いもんには目がない!俺の体液を舐めていた。よってオレの体液は甘い」みたいなわけの判らん三段論法が巡り続けていました。


瞬間、その足指の痛さなんか忘れていたはずです。

それから30分くらい小走りで逃げて、やっと目の前に、一軒のドライブインを発見。


頼み込んで、そのドライブインの納屋に泊めてもらえることになった。
やっぱり、あの時代は平和やったし、いい人が多かった・・
(まあ、ほんまに親切な人やったら、納屋には泊めんと思うけど・・)


敷地の端っこに建てられていた二畳ほどのスティール製の納屋。
中には、妙にフワフワするものやら、ゴツゴツするものやらが散乱していた。電気はなし。まだかろうじて残っていた夏の夕方の残照の中で、確認できたのは、とりあえず身体を横たえるスペースくらいはあるということ。


あの蟻の群れから逃れられるならどこでもよかった。


震える身体をそこに納めてやっとのことで安堵の溜息。
押し寄せる睡魔との闘いの最中にも、なにやら身体の近くを走り回る小動物の気配を感じてはいたけれど、もうどうでもよかった。


蟻よりだいぶん大きくて、きちんと動物の匂いをたてているそいつらと闘う気力はもう無かったんですわ。

「きっと明日は来る」


念仏のように小さく唱えているうちに、わけのわからん柔らかなものに沈み込んでゆく身体全体から意識が遠のいてゆくのでした。

こけつまろびつ・・それでも歩く

こけつ まろびつ・・それでも歩かな・・なあ
このあたり、ちょっと混濁してくる・・・。


なにしろ、38年も前の事やからね。
でね、さっきからネットで地図を検索していたんですわ。
この日は大月あたりから、笛吹川のほとりまでの旅程やったはずです。



翌朝は、眼が覚めたらすぐに歩き出したんやと思います。
ご親切にも一夜の宿を提供してくださった方には、御礼の手紙を納屋の藁の上において、まだ暗いうちから歩き始めたはずや。



朝飯までご馳走になる気はなかった。
田舎の人だから、きっとそんな事になるんやないかと思うたら、申し訳なくてね。
けど、きっとビックリされたやろうなあ。
昨夜の出来事は幻かと・・・・・。


そやけど、旅の間中、何かを食べたという記憶がトンと無い。
といって、今のように飲んだくれていたわけじゃないから、エネルギーの補充はどうしてたんやろなあ・・・。





四日目・・笹子トンネルの中を歩いた時のことをしっかり覚えてます。

結構の交通量があって、そのトンネルの中を壁にへばりつくようにして歩きました。追い越してゆく車も、向こうからくる車も、クラクションをやたら鳴らしていた気がするなあ。


それが僕は怖かった。


けど、運転手さんたちは、もっと怖かったやろうと思うよ。ライトの中をヨロヨロと歩いてゆく白装束の姿を見て・・・。


下駄はもう二足目になっていたんじゃないかな。前日の大月にはいる手前で買い換えたような気がする。


新しい鼻緒が痛いんですわ。
もう相当に足指の股がただれてしまっていましたから。一歩足を出すたびになんともいえん激痛が背筋を駆け上がるんです。


そやから、ほんまに足を投げ出すようにしてゆっくり前に進んで行く感じ。

あの長いトンネルの中を、排気ガスが充満する中をそろりそろりと長い時間をかけて進んでいったんです。なんともケッタイナ絵ですな。


なんとか勝沼のあたりに着いたのがお昼頃。
なんとも痛みが我慢できず、道そばにあった葡萄畑の脇で一休み。

少しだけ休むつもりが、ついウトウトとしてしまいました。
夢の中で、サイレンのような音を聴いて我にもどったのですが、今から考えると、終戦記念日で、黙祷をするための合図の音が近くの農家のラジオから
聴こえていたのかもしれません。


時期的にはそんな時期でした。


なんとか再起し、それからも歩き続けてたどり着いたのが、当時、少し有名になっていた川・・笛吹川(今ネットで検索すると、木下恵介監督作品の1960年の映画と出てくるけど・・・・なんで僕にとって印象深かったのかは不明。観たのかなあ・・)

笛吹川

まあそのあたりはイイとして、やっと笛吹川にたどり着いたと思いなせエ!

あ、今日はこのくらいにしときましょ。

しかし・・この夜もドラマは待っていた・・・!!
今思い出してもおぞましい・・・!!!
 ああ、なんと!! 足に!!


さびしい・・・一人旅

さびしい・・・一人旅


前日の崖くだりが、相当応えてた。
一歩踏み出すたびに、太股がビーン。
それでも心に決めたからには、歩こうや!!な!・・・


それに答える声が・・ない。


僕は一人で歩いてた。(なにしてんにゃろ、俺・・・・)
もう夕方近く、前の風景が灰色に見え始めていた。
(あそこまでいったら休も)

前に見える電柱一本にたどり着いては溜息。



けど、腰をおろしたら多分もう立てないとわかっていたから、座り込むことはせずに、立ったまま一息。

またノロノロと歩きはじめる。はるか彼方に見える次の電柱を目指して。



朝のうちに別れた相方は、多分今頃は下宿で、この二日間で痛めつけた身体を癒しているだろう。二日間歩いた行程も、電車では1時間ほどで大都会に帰還できる。




「牧野さん、絶対来んといてや! 見んといてや!」
道の脇にあった洞穴の中から響いてきた相方の悲鳴のような声が思い浮かぶ。
相方は持病を抱えていた。それを圧してこのプロジェクトに加わってくれたんやった。悪い事したなあ・・・。


昨日の崖くだりがよっぽど響いたんやなあ・・・


彼は洞穴の中でその治療をしていたのだった。
治療を終えてでてきた彼は申し訳なさそうに呟いた。

「俺帰るわ。牧野さんも帰ろう。な!」

ホンマは半分くらいそんな気持ちにもなったけど、格好つけて僕は言ったよ。「かまへん。俺一人でゆくさかい」
相方を中央線の駅の近くまで送ってから、僕は歩き始めた。

なんやしれんけど涙がでた。ものすごく暑い日やったから汗も一杯出て、涙と汗が一緒になって顔がグチャグチャになってた。

そして一日歩き続けて間もなく三日目の夜を迎える。
今夜はどこに泊まろうかなあ・・不安にもなる。人家もまばら。
歩くしかない。場所は大月を過ぎたあたりだろう。


夜の8時くらいになってやっと、一軒の農家を見つけ、頼み込んで納屋に宿泊させてもらえる事になった。

まだ平和な時代だったのかなあ。

時代錯誤にもほどがあるボロボロの袴をはいて、赤土のしみをいっぱいつけた絣(かすり)の着物をはおった男を敷地内に寝泊りさせるなんて、今時は考えられないかもしれないね。


ビッシリと積まれた藁(わら)束を布団代わりに、僕はたちまち眠りにおちていった。こうして三日目の旅は終わった。

ん!相方の病気か?・・・・・・●●


あんなあ・・実はその明りはな・・・・

あんなあ・・・実はその明かりはナ・・
あんなあ・・・
その明かりはな・・・・・



じれったがってる人・・いるよね・・・・・


これなんや


上のサイトをみても?????の人がいると思うけど、
つまりは、その谷底(うん!、それくらいの距離の急勾配を二人で落ちた)には、中央高速道の工事の方々の宿泊所があったわけなんですわ。
その区間の完成がサイトにあるように12月やからピタリと符合する。



こわーい、クーン クーンの鳴き声に追い立てられて青息吐息でたどり着いた僕等の姿は、そらあ、見るも無残なものやった。


何回も転んだから、着ているものは山の赤土だらけ。
何回も木にぶつかっているから、身体はあちこち擦り傷だらけ。


何というても、一番格好悪かったのは僕の袴姿や。
袴の両足を隔てているところが破れてしもうて、スカート状態。
ごっついオカマみたいな事になってしもうてた。

一仕事終えて、そこで一杯やってたオジサンたちがビックリ!して僕等二人をみてた。そらそうやわなあ・・・・。
こんな時間に。こんな格好で!!



それでもオジサンたちは優しかった。
賄い(まかない)のオバサンも優しかった。

僕等にいっぱいご飯を食べさせてくれて、酒も飲ませてくれた。
オバサンは袴の破れも縫ってくれた。
僕等は一風呂浴びさせてもらい、二人ぐっすりと・・・・・・・
とはいかなかった・・・・・・

まあ、僕にはそういう技がなかったから、セーフやったけど、相方は、オジサンたちに誘われて、麻雀に付き合う羽目になったみたい。芸は身を滅ぼす。


オジサンたちとしては、メンバーが足らずに、乗り切れなかった麻雀が一躍白熱化してきたことに大喜び。
相方は、御礼のつもりで、結構遅くまでつきあったてみたい。
僕はその傍でジャラジャラを何回か聞きながら、睡魔の誘いに喜んで身を任せていきました。

悪かったなあ。堪忍やで。後輩!!ZZZZZZZZZZZ

あれ・・な、なんの声や〜

あれ何の声や〜・・
クーン クーンと何かが鳴いているようなが聞こえてました。
ザワザワと腰の高さの雑草が音をたててました。

霧が降りてきているようで、すこし肌寒い感じ・・・。


山越えの道はドンドン細くなってゆき、気がつくと僕たちの四方八方が草でふさがれてしまっていました。振り向いてもどの方向から、ここまでやってきたのかはもう判らん。山道に入り込んで3時間あまり。完全に僕等は道に迷っていました。


みるみる夜の帳(とばり)がやってくる気配。


「なんか鳴いてるな・・あ・・」
「狸かなんかちゃうか・・日本狼は絶滅したらしいで」洒落にも何にもならん言葉をいう唇はカサカサになってたと思うよ。


「どないする」
「まあ、野宿いうことで・・・」

「な、なんか鳴いてるで・・」
「木の上に登って寝てたら、食べられへんて」
どっちのセリフが僕で、どっちが相方のか判らへんでしょ。
今、書いてても、そのあたりは、しかと区別はできません。
確かなのは、その時二人とも同じくらい恐怖感をもってたという事。

(行方不明報道から始まって、足取り調査では、きのう泊まったあの娘のところにも警察はたずねてゆくんやろな。ビールいっぱい飲んだ事もしれるわな。翌日二日酔いで出発したことが判断を誤った原因とかいわれるかもしれんな・・・・・)

ほんまに怖かったです。
クーン クーンという鳴き声は近づいてくるようであり、霧はしっとりと身体を濡らしはじめ、あたりは薄暮度50%。

(甘すぎる計画性・・)
(二つの遺体を捜索隊が山中で発見。すでにミイラ化)
新聞の見出しが、いくつも頭をよぎりました。


二人はいつか言葉を無くしてたたずむ・・いや!そんな事をしてる場合と違いました。どこからきてどこを目指したらいいのかもわからへんけど、何とかしてこの場から脱出しなければ、えらいことになる!

二人とも相当慌ててました。

二人して別々に迷ってしまうとこれもまた大変な事になるから、なるべく同じ方向を一緒に草をかきわけ前に進む(前か後ろかわからんかったけどな)

2,30分もそうしていたでしょうか。
勿論、薄暮はさらに状態は悪化、すでに闇率80%

下駄は歩きにくい。時々ズボッと沈み込む場所もある・・
気持ち悪かったけど、なんとかせないかん。動かないかん。


ぼちぼち、みなさんも「何とかこの二人を助けてあげて〜!」
という気持ちになってきたでしょ。

ではご期待に応えて・・・・。
ついに僕たちはひとつの灯火を発見しました。
上から見下ろすような感じで、下のほうに、チカチカと輝くあかり。


「おりるで!」「おりよ!」
僕たちはその明かりが何であるか確認する余裕もなく、急な坂道を息を切らして転がり降りて行きました。いや!転がり落ちるという方が正しかったでしょう。

(明かりが本物であってくれ! 誰か居てくれ!)
途中何度も木の株のようなものにつまづきながらも、僕たちは手探りで下へ下へと降りていったのでした・・・ああ、その明かりの正体は・・・なんと
・・・。
以下次号!

フーテン旅第一日目

フーテン旅第一日目
旅立ちはいつやったかなあ。
7日間で白樺湖にたどり着いたわけやし、その途中に8月15日の終戦記念日を迎えた思いでもあるから、8月10日くらいかなあ。

とりあえずは、前回のような、いでたちで大隈侯の下を出発。
相方とともに先ずは甲州街道を辿りました。

ということは、新宿の南口を通ったわけや。
その頃から交通量は相当あったわけで、その中を、白絣と袴の男、ジーパンに角帽の男が歩いてゆくわけです。

人目はかなりひいたと思います。
二人のナップサックの中には、なにを入れてたかなあ。

かすかに思い出すのは、バスタオルとパンツ3枚ほど。
お金も少々あったかな。それと旅日記でもつけるつもりやったのか、大学ノートと筆記用具。
今みたいにスポーツドリンクなんかあらへん。ペットボトルもない。
水筒くらいいれてたかなあ。

それにしても前の晩に電話をして「いよいよ明日旅立つ!」と宣言をした時に、「合宿の後に、学年キャンプをするので、その時私はお鍋を持ってゆくことになってるんですけど・・それ、ナップサックにいれてくれませんか」なんちゅうたわけた事をいう下級生がいた。


ほんまに、ことの重大さに無頓着な御仁。
あほか!と思うたけど、ちょっと気持ちが動いたのも事実。
言ったのは今の家内(陽子さん)・・・ぼちぼち好きになり始めてたのかなあ・・・(いまだに、反論をするのに勇気がいる。これは単なる現在の力関係やな)


まあ、とりあえず相方の男と二人して下駄をガランゴロンさせながら甲州街道を歩いて、初日は夕方近くに府中にすむ同級生の女性宅に転がり込んだ。


誤解のないように言っておくと、その彼女は自宅からの通学。
そやからご両親も同居。


ビールなんかたっぷり飲まして頂いて就寝。
多分、当時、ご両親は今の僕よりも全然若かったはず。
娘の友人といえど、こんなケッタイナ男二人が転がり込んできて、さぞかし吃驚されたことやろなあ。すんまへんでした。



初日の距離、20キロあまり。9時間くらい歩いての成果。
下駄というのは・・・やっぱり辛かった。寝ながらも、足の親指と人差し指(人は指さんけど・・)の間にすでに異常を感じ始めていました。

熱・痛でしたわ・・・

夢は信濃をかけめぐる

夢は信濃をかけめぐる
でもって、大学四年生の初夏。
栄養状態が悪くなると、余計に闘志がわいてくるという特異体質の僕。
佐藤真の合唱組曲「旅」を聞いた時から、この野望が疼き出した。
歩けるだけ歩いてみたい!たとえば東海道とか・・・


「そや!信州まで歩こう!」
蒸し暑くなりはじめた6月下旬。下宿で安酒をあおりながら決断。
(体力的に東海道は無理やなと判断)

目的地は信州信濃長野県。白樺湖で合唱団の夏合宿を行うことになったのを機会にその合宿地を目指す事とした。

いでたちは白の絣(かすり)に袴と角帽。
信玄袋をさがしたけど見つからなかったので、当時はやっていた木綿のナップサックを肩にかけ、勿論、足は下駄。

なんともレトロ。(ナップサックは変・・やったかなあ)
当時、応援団だって、もうこんなものを着てはいなかった。
雄弁会という団体には、ちょろちょろ、時代錯誤の風体の輩がいたけれど、僕は、スマートな合唱団員(?)。

いやはや・・・。

思いが昂じると、もう駄目。
嫌がる二級下の後輩を引きずり込んで、二人で信州へ。
といっても奴は、ジーパンに角帽、下駄・・(こっちの方が変!!)

大隈銅像の下から白樺湖まで220キロほど。
旅立ちの前の日には、瞳の奥に燃え立つ炎を感じた。
うん、確かに・・・。下宿の近くの一杯飲み屋でひとり梅割り焼酎をグイグイやりながら夢はすでに信濃をかけめぐり始めていた。

さて・・・以下次号・・珍道中の「旅立ち」

さらば青春の日々

これは僕の大学4年生の夏におこったことです。
当時下宿生活をしていた僕は、全くぐれていました。
それほどの不良というわけではないのですが、一般的な不良チンピラよりも、もっとたちの悪い学生でした。

モラトリアムという言葉が執行猶予期間を示すと知ったのは、相当後の時代になってからではありますが、まさしく、その時代の最中にいたのでしょう。

大学紛争の最中では、ろくな授業も行われず、レポートを提出しさえすれば、そこそこに単位がついてきた風潮は、なんとも長い長い休暇を僕に与えていたようで、僕はこのまま学ばずに社会に出て行くことにうろたえつつ、どういう方法でも、いいから自分の生をもやす術を手探りしていたのです。


同様に考えるそんな友だちを下宿にひきいれては、毎日のように一升瓶を前にして喋り、酔う。そうすることが押し寄せてくる不安に対峙する唯一の方法のような気がしていました。



昼間もほとんど米をたべることはなく、ただただ酒のカロリーだけで生きているような生活をしていました。

荒んでいました。
いくら考えても、未来にはなんの展望ももてないままの不良学生。
両親の期待をまったく裏切り、来年は5年生に進級することを腹にきめてのご乱行。

もっとも、親は大学2年生の時に離婚。そのことも僕の人生観に影響をあたえていたのかも知れません。



そんな生活の連続で体重は、半年で一気に10数キロ激減。
もともとは鳩胸であったぼくの胸部には、故意とはいえあばら骨がうきだしてくるようになりました。
下宿の庭にあった井戸で体を洗っていた時に、ガラス戸に映し出された自分の体に、正直言って愕然としました。

高校では柔道二段までとった体力ですが、さすがに、その姿を目にした時には「このままでは死ぬのかも・・・」という不安が胸をよぎりました。

「残されている体力を自分で確認してみたい」


祈りにも似た感覚がわきおこり、
唐突に、僕は歩き続ける旅を思い立ちました。
「下駄を履き、袴、絣を身につけ、力のあるかぎり昔の学生のように歩いてみたい」


これからこのブログに記述してゆくことは、僕が21歳の夏。
昭和43年の夏に体験した彷徨の旅の一部始終です。



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